病院沿革と歴代院長
病院沿革
神田駿河台で130余年、地域とともに。
杏雲堂醫院(後の杏雲堂病院)は、明治15年(1882年)6月1日、佐々木東洋(玄関右手左側の銅像、写真1)により「医学の進歩に寄与し、医業をもって社会に貢献する」という理念のもとに創立されました。
佐々木東洋は大学東校(東大医学部の前身)、杏雲堂醫院などで、特に脚気の診断治療に意を注ぎ、同時に多くの人材を育成しました。
第2代の佐々木政吉(玄関右手右側の銅像)は、日本人教授第1号として大学東校(東大医学部の前身)教授となり、杏雲堂醫院においては結核の名医として多くの患者を集め病院を拡張し、さらに明治29年(1896)には結核療養所として杏雲堂平塚病院(分院)を設立しました。
第3代佐々木隆興(研究所入り口の銅像)は、ドイツに5年間遊学後、京都帝国大学医学部教授を経て、杏雲堂醫院院長となり内科医として活躍すると同時に、関東大震災で消失した病院と研究所の本建築を復帰完成させました。
昭和14年(1939)には、杏雲堂醫院、杏雲堂平塚病院など私財の殆ど全てを寄付し、財団法人佐々木研究所を設立しまし
た。
佐々木隆興は、臨床医学だけでなく基礎医学研究にも情熱を燃やし多くの学術的業績を上げましたが、中でも吉田富三(佐々木研究所長)と共に行なったアゾ色素によるラット肝がん発生の実験は、わが国が世界に誇る研究成果です。
これらの研究業績で佐々木隆興は二度の帝国学士院恩賜賞(1924、1936)と文化勲章(1940)を受章しております。
また、吉田富三は、その後、世界的に有名な吉田肉腫を発見し癌研究の発展に大きな貢献し、学士院恩賜賞(1953)と文化勲章(1959)を受章しております。
その後、名称を杏雲堂病院に変更し、幾多の変遷を経て昭和63年(1988)に現在の場所に近代的な新病院が落成し、患者様の満足頂ける環境と最新設備を整えました。
平成24年(2012)には、杏雲堂病院は創立130周年を迎え、同時に財団は「公益財団法人佐々木研究所」として認定移行致しました。
「神田駿河台で130余年、地域とともに杏雲堂病院」
「このがんなら杏雲堂」
「わたくし達は、がんを中心とした医療で皆さまのお力になりたいと願っております」をモットーとして、ソフト・ハード両面からその方向に近づくよう努力しております

佐々木東洋

佐々木政吉

佐々木隆興
「杏雲堂(きょううんどう)」という名前の由来について
古く中国西晋時代の神仙伝の一節に、呉の国の董奉(とうほう、字は君異)という名医の逸話として、「人の為に病を治すも銭物をとらず、病の癒ゆる者、軽症の時には杏一株を植えしめ、重症の時には五株を植えしめたり。かくの如くすること数年にして十万余株となり、鬱然として林を成し、杏花雲の如く、杏子大に熟せり。」とあります。
つまり、昔中国のある名医が治療費の代わりに杏の木を、重症者には五株、軽症者には一株植えさせ、それが後に大きな杏の林になったというお話です。
この故事から、医家・医師のことを「杏林」と言うようになりましたが、初代佐々木東洋は「杏花雲の如く」に感じて、明治15年(1882)6月1日の開院時に、「杏雲堂醫院」と命名したと伝えられています。

ロゴマークについて

杏の花は、「杏雲堂の由来」の説明にもあるように、佐々木東洋が明治15年6月1日に杏雲堂醫院を開院したとき以来、杏雲堂病院のシンボルマークですが、今は(財)佐々木研究所全体のシンボルでもあります。
なお、この作品は、財団内から応募された41作品の中から選ばれた杏雲堂病院検査科の小瀬木 輪子さんによるものです。
審査を引き受けて下された岩澤一郎氏(アートディレクター、日大芸術学部卒、昭和15年生)によれば、「当選作は、斬新な形であり、スクリューの形が推進力を秘めている」とのことです。
平成14年6月に商標登録出願をし、平成15年4月18日に商標登録されました。
歴代院長
明治~昭和
氏名 |
就任期間 |
年数 |
前職 |
主たる専門分野 |
---|---|---|---|---|
佐々木東洋 |
明治15年~明治29年 (1882-1896) |
14 |
杏雲堂醫院 |
内科(脚気、結核) |
佐々木政吉 |
明治29年~大正5年 (1896-1916) |
20 |
杏雲堂醫院 |
内科(結核) |
佐々木隆興 |
大正5年~昭和13年 (1916- 1938) |
22 |
杏雲堂醫院 |
内科(内科全般)・生化学 |
佐々廉平 |
昭和13年~昭和33年 (1938-1958) |
20 |
杏雲堂醫院 |
内科(腎臓疾患) |
塩谷卓爾 |
昭和33年~ 昭和42年 (1958-1967) |
9 |
杏雲堂醫院 |
内科(消化器疾患) |
上田英雄 |
昭和45年~昭和46年 (1970- 1971) |
1 |
東大医学部 |
内科(循環器疾患) |
五味二郎 |
昭和49年~昭和53年 (1974- 1978) |
4 |
慶大医学部 |
内科(結核、糖尿病) |
松井良吉 |
昭和53年~昭和57年 (1978- 1982) |
4 |
杏雲堂病院 |
内科(呼吸器疾患) |
平成
氏名 |
就任期間 |
年数 |
前職 |
主たる専門分野 |
---|---|---|---|---|
佐々木智也 |
昭和57年~平成2年 (1982- 1990) |
8 |
東大医学部 |
内科(リウマチ) |
坂本二哉 |
平成2年~平成5年 (1990- 1993) |
3 |
東大医学部 |
内科(循環器疾患) |
天神美夫 |
平成5年~平成9年 (1993- 1997) |
4 |
杏雲堂病院 |
婦人科(子宮癌) |
松崎 淳 |
平成9年~平成15年 (1997- 2003) |
6 |
杏雲堂醫院 |
外科(外科全般) |
高橋俊雄 |
平成15年~平成19年 (2003- 2007) |
4 |
都立駒込病院 |
外科(消化器癌) |
海老原敏 |
平成19年~平成24年 (2007-2012) |
5 |
国立がんセンター東病院 |
頭頸科(頭頸部癌) |
山中健次郎 |
平成25年~平成28年 (2013-2016) |
3 |
杏雲堂病院 |
内科(リウマチ-糖尿病) |
中村俊夫 |
平成28年~平成30年 (2016-2018) |
2 |
佐々木研究所 |
内科 |
令和
氏名 |
就任期間 |
年数 |
前職 |
主たる専門分野 |
---|---|---|---|---|
相馬正義 |
平成30年~令和5年 (2018-2023) |
5 |
日本大学医学部 |
内科 |
坂本優 |
令和5年~令和6年 (2023-2024) |
1 |
杏雲堂病院 |
婦人科 |
椙村春彦 |
令和6年~ (2024-) |
佐々木研究所 |
病理 |
経歴
佐々木 東洋(1839-1918)
天保10年、江戸本所四つ目生まれ。
佐藤泰然の佐倉順天堂塾を経て長崎へ留学しポンペからオランダ医学を学ぶ。
東京に戻り大学東校医長に就任。
博愛舎、東京府立病院を経て 36歳で大学東校病院長。
辞任後、政府の脚気病院で洋方医部門を担当したが、明治14年に42歳で神田駿河台に杏雲堂医院設立。
東京府医師会本部幹事、神田区医師会会長を歴任。
この間、戊辰戦争、西南戦争に軍医として参加。
57歳で引退し佐々木政吉が杏雲堂医院長に就任。
大正7年、80歳で没。

病院前銅像
佐々木政吉(1855-1939)
安政2年、江戸生まれ。
大学東校を卒業後、明治13年から5年間ドイツ遊学し、帰朝後、最初の 日本人としての東京帝国大学医科大学教授に就任。
明治21年、本邦医学博士第二号として医学博士授与。
明治24年、官命によりロベルト・コッホのツベルクリン療法調査研究のためドイツへ出張。
明治27年、佐々木研究所の母体となる研究室を自邸敷地に新築。
明治29年、東洋の後を受け杏雲堂医院院長に就任、平塚市に結核療養所を設立。
大正5年、顧問に就任。大正13年、古希をもって引退。
昭和14年、85歳で没。

病院前銅像
佐々木隆興(1878-1966)
明治11年、東京本所生まれ。
養祖父は杏雲堂病院創立者東洋。 養父は二代目院長政吉。
東京帝国大学医学部卒。
ドイツに5年間留学し、化学、生理化学、細菌学、血清学などを学ぶ。
帰国後、京都帝国大学医学部内科教授を努め、杏雲堂病院院長。
昭和14年私財を投じて佐々木研究所を創設、理事長兼所長に就く。
癌研究会癌研究所長、結核予防会結核研究所長、帝国学士院会員、日本内科学会会頭、国際癌会議(東京)名誉会長などを歴任。
大正13年、「蛋白質およびこれを構成するアミノ酸の細菌による分解とアミノ酸の合成に関する研究」により帝国学士院恩賜賞を受賞。
昭和11年、「アゾ色素の経口投与によるラット肝癌の発生」により吉田富三と共に二度目の帝国学士院恩賜賞を受賞。
昭和15年、文化勲章受章。
昭和26年、最初の文化功労者に推戴される。
昭和41年、88歳で没

研究所前銅像